Essay

バロックが出来るまで

とうとうちゃんと復帰したんだな、とひしひしと感じるこの頃。

もちろんEMIから昨年出した「Musical Moments」も好きな作品だ。特に「Ill Wind」から表題作「Musical Moments」に入る所なんかはずっと思い描いてた通りになった、と自分でも満足している。でも、あの頃はどうしてもプロモーション活動をする気になれなかった。90’s私が一番辟易していたのがこのプロモだからだ。

作品としては、元々「ザ・スルペニ・オペラ」を核に作ることを考えていて、その為にはどうしてもNYで録らなければならなかった(理由はあとで)。だがこのご時世、もちろん派手な事をするバジェットはなく、クリアするには制作費をどれだけ安く上げるかに掛かっている。

よって、私のこの申し出は却下。急遽トリオで、たまたまスケジュールの空いていた井上陽介、たまたま日本に彼女(今は奥さん)を訪ねて来てたジーン・ジャクソンに頼んだらあっさり「空いてるよ」と。これであと準備2週間。曲を書いたりセレクトしたり、、、

あと、この時どうしてもこだわってたのはソロピアノ。アート・テータムを唯一の天才と考える私が、私なりに解釈した彼のスタイル(あくまで私なりですよ。彼がやってることは凄すぎて、あり得ないんです。そして決してその場のパフォーマンスに頼らない、曲芸にならない。この辺のことは、後に故ハンク・ジョーンズさんとがっつり語り合うチャンスがありましたので、また後ほど)をどれだけ表現できるかが、もの凄いチャレンジでした。

他の曲もまぁバンドとして全く活動したことがない3人が、スタジオでほぼ初めて合わせた割にはまぁなんとか。「まだ反射神経は多少残ってたんだなぁ」と思いました。

そんな訳で、私にとっては特に嫌な思いもする事もない、プロモーション活動も全くしない1作となった訳です。そして1年間、勝手な活動を繰り広げ、やはり行き詰まるのです。日本はもちろんNYにもヨーロッパにも、私がかつて憧れたキャッツはもういないと。

こないだ亡くなってしまった、ハンク・ジョーンズさんと結構な時間ハングすることができ、色んな話をしました。

ステージではいつもチャーミングな紳士という感じですが、実際はとにかく自分の美意識を貫く厳しい方でしたよ。辛辣な言葉がポンポン。思い出しました。私が叩き上げられてた頃、オールドキャッツは簡単に褒めなかったんだ。

当たり前だ。だってチャーリー・パーカーとかリアルタイムで一緒に演ってるんだから。ハンクさんなんかアート・テイタムを眼の前で見て、何度ピアニストであることを止めようと思ったか分からないと。そのくらい昔の人達の上手さったら、、、

しかも曲芸じゃないんですよ。音楽なんですよ。そんな経験してる人が、孫やひ孫ほどの若手がなんかやったって、上っ面のお世辞くらいは言ったとしても、本当に誉めるわけないじゃないですか。

そんな話を聞いて、急に首筋にピッと鍼を刺されたような感覚、ケンシロウの「お前はもう死んでいる」じゃないですけど、なんかそんな物が走りまして、「あぁ、なんかこの人達に怒られながら、バンドスタンドで成長させて貰ったラストジェネレーションがアメリカにはゴロゴロいるな。皆、急激なビジネスの変化とか色々あって、もうメインストリームジャズなんて、って思ってるけど、経験者全員集めれば、みんなあの時のサウンドに自然になるんじゃない?」とちょっと閃いた。

もっと言えば、そのヒントを出してくれたのは現マネージャー(その時はマネージャーじゃなく、私より売れてるトランぺッターだった)のK氏。こっから今回の「Baroque」は生まれることになる。

さて、ここで話は2年前に遡る。この時はまだ「Musical Moments」を作る全然前。

EMIとの昔の契約がまだアルバム一枚残っていた事に、この頃ようやく気がつき、なんとなくEMI名物プロデューサーN氏と会ったりはしていたが、まだ「自分がナニやりたいのか分からない」、「まだ完全にチョップスが戻ってない」などを理由にだらだらと先伸ばしていた。

その一方でライブ活動は、だいぶカンを取り戻しつつある様な、ない様な。

まぁ、とにかく演らなきゃ戻らないし、長い付き合いのライブハウスには、ちょくちょく出させてもらう様になったし、地方へも行き始めた。

この時は、ドラムの原さん、ベースの米木さん、サックスの川嶋くん、池田あっちゃん、そして峰さん達が、本当にまだ満足に弾けない私に、よくつき合ってくれたものだと感謝してもしきれない。そしてブルーノートやビルボードといった比較的大きな箱もブッキングしてくれた。ブルーノートに至っては、私のリクエストで、アメリカからレジナルド・ヴィール、ハーリン・ライリーと言った最高の腕試しを呼んでくれたので、これは有り難かった。

やはり、彼らは私にとって最も大きな鏡、常にピカピカに磨かれ私の全身をあますことなく映し出してしまう。いや、鏡というよりもはやHi-Vision。とにかく私が良ければとんでもない反応が返ってくるし、またそれにすぐ反応できないとそこで引かれてしまう。私が全然イけてないと、なーんにもハプニングしない。彼らと演る時ほど、ごまかしの効かないものはない。

ここで改めて感謝したいのが、その頃必死に私を支えてくれていた、前事務所Pのスタッフ。

彼らを日本に呼ぶようになって2年目に、私は「2日や3日では足りない。私がここでほんとにカンを取り戻すには最低1週間のツアーを組んで!!」ととんでもないことを言った。活動を休止して10年が経ち、誰も私を憶えてない。赤字必至。でも彼らはやってくれた。これは本当に大きかった。

1週間を人間HiVisionとバンドスタンドに上り、お客さんの前で揉まれることで、大きく肉体的に戻った感触を得た。

その時の公演最終日前日の1曲が「MusicalMoments」に収録されているが、曲の途中で私が何かを思い出し、突如として表現し始めたのが、おもむろに記録されている。今、そこをはっきりと、「ここ、ここ、ここで思い出したの』ということが出来るほど。

ほんとにこの1週間を私に与えてくれた方々がなかったら、今、活動再開なんて事はあり得ませんでした。本当に感謝してもし尽くせません。

で、この日、たまたま「あ、順子さん、ブルーノートに出てる。しかもレジーとハーリン!!」と思い観にきてくれたのがberklee時代の後輩、トランぺッターで、現マネージャーのK氏でした。その彼が終演後、楽屋に来てくれた事が、また私が走り始めるピストルを鳴らす事になるのです。

K氏とは長いこと疎遠になっていたけど最近私が活動し始めたと知って、わざわざ見に来てくれたのです。そして、それをきっかけに、昔話などを楽しむ飲み会などで、しょっちゅう一緒に遊び始めました。

彼はお互いまさに一番多感な頃、ボストンやNYで起こっていた事を、ほぼ同じ目線で見て、聴いて、感じてきた、いわば同志なのです。

頃は88年から90年代頭。私たち若者は、ウィントン・マルサリスの台頭でモンクやデュークなどをリスペクトし、トラディショナルなものを土台とし、そこに新しいリズムやハーモニーを駆使していく集団、そして同じくその頃盛り上がり始めていたHipHopなどとも積極的に交流しパーカーやオーネットらがいかに前進していったかを意識しながら、これまた全く違う形で新しいリズムやハーモニーを駆使して音楽を追求する集団、とにおおまかに分かれていた。

が、完全に分かれている訳ではないし、全く派閥があったわけではない。常に交流していたし、常にいっしょくたにジャムってた。そしてその上にアート・ブレイキーがいてベティ・カーターらがいてちょっとでも鍛えがいのある若者を見つけてはバンドに引き入れツアーに連れて行く、というルート。または、当時バブル景気に湧いていた日本のレコード会社が、この久々に起こったジャズシーンの盛り上がりに眼をつけ、全くの新人とサインして日本を出発地点にデビューさせたりしていた。

昔からジャズを大変大事にしているヨーロッパでも、特にアヴァンギャルドな物を好むドイツなどのレーベルは比較的、後者の集団に属してると捉えられがちなヤングキャッツと積極的にサインしていた。

そんなこんなでこの時代は若いジャズ・ミュージシャンにとって、絶好のチャンスだったし、だからと言って誰もが安易にデビューできないように上の世代、レジェンズ達がしっかり眼を光らせてたと思う。

例えば管楽器奏者なら、一度はライオネルハンプトン等のビッグバンドから始まりギャラはないに等しい。寝る間もない超長距離の移動&すぐHit。やっと着いたホテルは相部屋。で2,3時間ですぐ叩き起こされまたすぐバスへ。それが最低3週間長くて3ヶ月続く。

その中で演奏に関してはがんがん怒られる。なにやっても怒られるからとうとうなにも吹けなくなってしまう。あげく自分のパートを他人にとられる。

そんなことを繰り返し経験して、どんどんふるいにかけられる。

あの当時デビューしてた連中は一見どんなに幸運で、最速でデビューしたかのように見えても、これを経験してない人はいないと思う。とにかくコンペティションが毎日渦まいていた。毎日が椅子とりゲーム。

まだ若いとはいえ身体も心もぼろぼろに傷つきながら、時に人間不信になりながら、それでもバンドスタンドに乗っかってレジェンドに怒られながら、彼らが発するきらめくような瞬間にクラクラしながら全く同じその瞬間を共有する。

これはかなり肉体的な要素もあるので、こんな奇跡的に自分の存在を確かめられる経験は、なかなかあり得ない。これは本当に私にとってのものすごい幸運(多分生きてる中で、これからもこれ以上の幸運はないんではないだろうか)なのだが、私はこの椅子とりゲームに何度も敗れたけど、何度も勝つことも出来た。しかも色んなバンドに呼ばれた。

それこそHipHopとの融合を試みたバンド、ザ・ルーツやアイス・キューブとの共演の次の日はジョー・ヘンダーソンとヨーロッパツアー、帰ってきたらミンガス・ビッグバンドで隣に死ぬ数ヶ月前のジョージアダムスの圧倒的存在感に縮みあがり、その次の日は若手ばっかりで(マクブライドなんかいたな)のセッション。これもびっくりする才能に出会うすごいチャンスだった。その次の日は「歌もののバックはこの人から学べ!」のベティ・カーターとのショウにフレディ・ハバードがゲスト。この時のハバードは、まだチョップスが悪化する前だったからそれはそれは凄かった。とにかくこんな密度で毎日が過ぎて行った。

K氏は同じ頃そこにいたのでウィットネスでもある。この時のNYの。そして私の。

話はちょっと戻るが実はバークリー時代、ベースや理論などを教えていた黒人のMr.エバンスという先生がいた。この方は割にウエストコーストのミュージシャン達と交流のある方だったのだけど、ある日「僕はアーマッド・ジャマールと一緒に、とあるレーベルでプロデューサーをしているんだけど、君のアルバムを制作したいと思ってるんだよ。ベースはレイ・ブラウンで…」と言われた。まだ学生2年目の私にはびっくり仰天の話だったが、即答できなかった。

そのちょっと前、トロンボーン奏者としてピカ一のスライド・ハンプトンが学生ばかりを引き連れてフランスをツアーするという企画の一員に選ばれ、そこで初めてプロ中のプロと1週間を過ごすという機会に恵まれた。そして私はその時電話番号を聞かれ、「NYにきっと来なさい。君はやっていけるし、僕に何かできることがあったら助けるよ」と言ってくれて舞い上がってしまった。そして帰ってきてすぐにこの話。

随分迷ったが、私はそのフランスのツアーで初めてプロ(この時はスライドだけがプロだったけど)と同じバンドスタンドに乗っかって、ある種のトリップ経験をその時既に味わってしまっていた。サイドマンとしてスライドや他のプレーヤーを支え、時には挑発する。そしてそのあと自分に廻ってくるソロでは「どうしてやろうか」と狙ってみたり、、、セッションは毎晩学校でやり尽くしていたが、プロ(それも超一流の)が入るだけで、こうも違うのかとびっくりした。

「私はこれをもっともっとやり続けたい」と心の底から思った。事実、今でも憶えてるがその時一緒に演奏していた同級生は「なんか突然変わったね、順子」と言った。

そして私は、即デビューするより、もっと叩き上げられたいと決心し、エバンス先生の申し出を断り、スライドのかけてくれた言葉だけを頼りに、学校の授業も出来るだけテストアウトしてさっさと卒業して、卒業式に出るのももどかしく、たった独りでNYのBrooklynに引っ越してしまった。

ブルックリンは当時、まだ家賃も安くて場所さえ選べばそう居心地は悪くなかった。
ただあれだけ毎日学校でセッション三昧だったのが、仕事が入らない限り、自分の家の小さなレンタルぼろアップライトピアノに向かい一人で練習する以外ない。セッションが好きなだけ出来ないのだ。凄いフラストレーションだった。

もちろん引っ越してすぐにスライドに連絡した。「来ました!」と。
でもまぁよくある話で、そうそううまいこと話は転がらない。スライドはもちろん「よく来たね、なんかあったら絶対君を推薦するよ」とは言ってたけど、彼のその時のお気に入りは、berklee先輩の素晴らしいパナマ出身のピアニスト、ダニーロ・ペレツ。当時スライドはディジー・ガレスピーののラテン・ビッグバンドでバンドマスターをやっていて、ラテン物が大得意のダニーロの演奏に夢中だった様だ。後から、彼が随分私の事を色んなキャッツに話していてくれた事を知るのだけど。

とにかく、そうやって昼間は一人で練習。夜はマンハッタンに出かけ、お金がないから色んなライブハウスの素晴らしい演奏を、ドアの外から漏れてくる音を一生懸命聞く。そして夜中、若者の若者によるオープンジャムセッションが始まる。ここからだと5ドルくらいで店内に入れる。

ここで演奏に参加したい人は、置いてある用紙に名前と楽器を書いて呼ばれるのを待つ。呼ばれない事も多い。名前から日本人だと判り、ヘタクソだろうと最初から仲間に入れてもらえないのだ。運よく呼ばれて管楽器のコンピングだけでソロを回してもらえない。「もうなんのための5ドルだ!」と何かを蹴飛ばして、真夜中の地下鉄(最近はすっかり安全になっててびっくりです)でピリピリと自分を緊張させながらブルックリンに帰ってくる。結構危ない行為でしたが、あの時はご先祖様にでも守られてたんでしょうか、危ない思いをしたことは1度もなかった!!

まあ、そんなことが半年続く。berkleeからエキストラでもらってるビザ(就職活動期間用として卒業後半年分もらえる)も切れるし、そろそろあきらめて帰るかと片道チケットの安いのを見つけて予約をした。

その頃アップタウンのbandstandもない様な小さなカフェに、若いミュージシャンが集まって何やらイケてることをやってるらしい、という噂を聞く。帰る前にそのバンドを見て行こうと思い、アップタウンへ。

場所は老舗Birdland(ここは元々52ndストリートにある頃有名でしたが、一度潰れてまたこのアップタウンに場所を移して新しく開店していた。出演者はアート・ブレイキー、ジョニー・グリフィンなどなど、大御所ばかり)の真隣。

多分、コロンビア大の学生が週末ハングアウトする、本来Jazzとは全く関係ないイタリア系がやってたカフェ。というか飲み屋。

着いてびっくり。天才ベーシストと言われているクリス・マックブライドが弾いてるではないか。当時17歳。その他のメンバーも凄い!こんな上手いのberkleeにも今まで見たJamでも、どこにもいなかった。アルトにジェシー・デイビス。テナーはアントワン・ルーニー、 ドラムスはエリック・マックファーソン、 ピアノはスパイク、、、、とにかく凄いレベルの高さだった。

当時、Berklee内でのブームは(結局流行モノに走るとこが学生)チック・コリア・エレクトリックバンドとウィントン・マルサリス。でも、彼らは全く違った。もっとビーバップ。そしてコルトレーン。これが見たかったのだ!私が一番最初に来るべくNYのJamはここだったのだ。

で、お決まりのopen jamの始まり。
今までさんざん嫌な目に合ってた私としてはためらったが、「弾かせてくれ」と言ってみた。だってどうせもう日本に帰るのだから駄目もと。びっくり!弾かせてくれた!凄い!スライド以来の上手い管楽器の後ろでのコンピング、しかもはなっからスウィングしっぱなしのリズムセクションの上なんだからもうヤバい!気持ちいい!リズムにロックインさえしていればコンピングってこんなに楽しい!!ソロまわしてもらえなくてもいい!がソロがまわってきた!これはもうあり得ない。今でも鮮明にこの時の気持ち良さは甦る。「この瞬間、もっと続いて!」それでも終わりは来る。

ハッと気付くと客は大喝采!ジェシーもアントワンもクリスもエリックもスパイク、もみんながものすごく讃えてくれた。電話番号を聞かれナプキンに書いた。もう日本に帰っちゃうとは言わず。「あぁ、最後にすごい想い出できたな」興奮して眠れなかった。

ところがまさに次の日の朝、ジェシーからまさかの電話。「今日からバンドにレギュラーで入ってくれないか?」「え?Spikeは?」「彼はクビ」「えっっっ?!」でも断る理由なんかどこにもない。スパイクがなんでクビなのかなんて聞くのはもっと先でいい。はやく、はやく言わなきゃ。「喜んで」。

早速、旅行会社にチケットをキャンセルする連絡を入れる。やっと、やっと私がこの街にいる理由が出来たのだ。ほんの、ちっぽけなことだけど。私にとってはもう地球がひっくり返るくらいの出来事。というか私が布団のうえでひっくり返ってた。

その日から私の生活はがらっと変わった。今まで半ばやけくそでやっていた家での個人練習が、金曜と土曜、たったその二日間の為のものに変わったのだ。なぜならこのバンド、実に様々なアスペクトを持つバンドなのだ。

誤解を恐れず言えばジェシーはニューオリンズ出身で、ウィントンのファミリーからも充分レールを敷かれている立場だったにも関わらず、ちょっと一匹オオカミ気取るとこあるし、自分の細胞はバードとキャノンボールとレディDayで出来ていると言い切っていた。で、ほんとにそんなプレーするから、こっちもその気持ちを汲んで、徹底的に彼のもつ音楽観を勉強しようとする。

今、はたして20歳くらいで「For Heaven’s Sake」 という曲を真剣に、自分の歌として表現しようとするミュージシャンはいるだろうか。とにかく彼はたった21や22という年齢でレディDayのように歌い込みたいんだと、来る日も来る日も私をアパートに呼び出して、この曲を一緒に練習した。新婚間もない奥さんはその間、いつもベランダでたばこを吸っていた。

一方、アントワン・ルーニー。彼の音楽はまぁ誤解を恐れずいうと、コルトレーン後期&ウェイン・ショーターのマイルス期。これはまぁまだBerklee時代から経験なくもない、、、が、リズムセクションがエリック・マックファーソンとマクブライドなもんだから「わーーーどこまで行くんだーーーー!!」みたいな。こんなことが半年続いた。これはもう虎の穴です。鍛えられました。

評判が評判を呼び、このバンドとジャムる為に、色んな若手がいつも楽器を持って列を作ってた。ピアニストももちろん、まだ若いブラッド・メルドーなんかも良く来てた。すごく上手くてビックリした。未だに彼が弾いた「Stablemates」をもう一回聴きたいです。

「Lover」という曲を毎コーラス、キーを半音づつ上げて、トータル12コーラスをずらーっと並んだ管楽器奏者(10人はいた)全員がやる、しかもテンポが限りなく400に近い、それを相手する私らリズムセクションは「ホント、どんな体育の時間だ!?」とか言いながら演ってました。

また、そんな時にも素晴らしい出会いがあるもので、ミッドタウンに住んでいたバーサ・ホープ(エルモ・ホープの奥さんでやはりピアニスト。ビーバップ時代をリアルタイムで目撃した人)が突然ふらっと店に来て飛び入りしていった。素晴らしかった。翌日早速彼女の家に。いろんなリハモを教えて(見せて)もらった。そんなことも数知れずあった。

バンドの仲間ともどんどん仲良くなり、ブルックリンに住んでる私を多少心配してくれた。すっかりダチになったマクブライドやエリック・マクファーソンがセッションが終った夜中3時くらいになると、MSGの地下のゲーセンで一緒に時間を潰す。ちょっとでも明るくなってから電車に乗ろうという魂胆。

マクブライドは当時クイーンズに住んでいて、ジェフ・キーザーがルームメートだった。キーザーはバークリーの時から天才少年として扱われており、当時入ってきたロイ・ハーグローブも同じく天才少年というふれこみで、さっさとTest OutしてNYにいた。そして同じようにもがいていた。

一抜けはやはりキーザーだろう。日本のレーベルからリーダー作を出していたし、退団したばかりのベニー・グリーンの後任ピアニストとしてすぐにブレイキーのバンドに入った。私とは違い全く時間の無駄なく。

そんなある日となりのBirdlandで休憩中だったアート・ブレイキーが来た!シットインした!
とうとう夢の初共演!!

ああ、もうなに弾いたんだか… 多分 「On the Ginza」(change 知っててよかった!!!)、そして「Along Came Betty」、ああ、ほんとにそこでこのロールがはいるんですねぇ、神様。そして「A Night In Tunisia」。とうとう本物とやってしまった。これは例えばポールマッカートニーと「Let It Be」 を一緒にやる、とかよりもう全然すごい!少なくとも私にとっては!!
ナニこれ、夢?という一夜があった。

もちろん彼はこのバンドの噂、とくにマクブライドのことを気にしていてふらっと立寄ったに違いないのだが、休憩中にもかかわらず3曲も叩いてった。そして私は途中からキーザーに席を譲った。この店で4曲もただでショーをやり隣の店に帰って行く。
こんなことは当時のNYではしょっちゅう。

その時 Boo(アート・ブレイキーの愛称)は私にこういった。「スライド(ハンプトン)がいってたのは君のことかな、良かったよ。ベティ(カーター)がピアノ捜してたから言っとく。」なんてさらっとものの一秒くらいでだーっと私に言ってBirdlandに戻ってしまった。

今のも夢?が、果たしてベティから電話はくるのだった。(当時、レギュラーピアニストの色んな事情によるサブからの出発)そしてアントワンの兄、ウォーレス(ルーニー)経由で
ゲイリー・トーマスへと続くことによって当時 ”M-Base” と呼ばれてた新しい集団、HIP HOPとの共演へとどんどん音楽体験は広がって行く。
そう、私のcareerはここ”Augie’s”から始まったのだ。

そして仕事に行く度行く度とにかく要求される。サイドマンなんか自分のロボットと思って扱う人が全くなかった、とは言えない。けれど私はそれさえも(なくすと食べてけないし)勉強材料を与えてくれてると、自然かつポジティブに受け止められた。要求されてたことは、決定的に私に欠けている事にも関わらず、そこを彼らは丁寧に(多少苛つきながらも)教えようとしてくれていた。すぐにクビにはせずに。ならば一分でもはやくそこに気がついて、早く攻略しなきゃ!今時、なかなか勉強素材与えてくれる人なんていませんよ~。怒鳴られながらでも、そこさえ我慢すればあとは宝物を私に教えてくれる、見せてくれる。いくらでも我慢しますよ、更年期のイライラくらい、の吸収力だったと思う。

そしてまた一旦ツアーに出ると、例え大御所のバンドであっても、そのスケジュールは過酷極まりない(まだまだJazzは色んな意味で低予算で賄われてます)。アメリカ国内を大きめのバンで走りまくって毎日乗り打ち。3週間から2ヶ月まるまる同じバンドで回る。うちオフ日は1回か2回くらい。とにかくアメリカは大きな国だから、丸一日かけて各都市を回る。前日の演奏直後から移動してずーっと走り、着いてすぐ演奏。そしてその繰り返し。なんてことも珍しくない。

更にヨーロッパツアーも過酷である。広大な土地をやはり車か電車で回る。日本のようにダイヤがきちんとしてたり、新幹線の様な物ではない世界の車窓から、チックな電車で毎日8時間くらいかけてまわる。当時はEUでなかったから、国境を越える度にパスポートを見せろ!と叩き起こされる。当時の私のパスポートはページが全然足りなくて屏風のようなながーいエクストラページがついていてものすごく分厚い。とにかく寝させてくれ、という日々。演奏場所はライブハウスも多いがフェスも多い。ここで色んなバンドと交流できる。皆「とにかく寝たい」と口を揃えて言う。が、バンド対決みたいな気持ちも心の中にちょっとはあるので、眠いといいつつ、対バンがないライブハウスやコンサートの時より演奏は熱くなることが多い。黒人の方々は特にマイクタイソンっぽい気質(ほんとのタイソンを知るわけでは無いが)の人が多いなあ、と思った。

一方、これも皆口を揃えて言うことだが、ツアーに出るとやはりどんどん基本的な練習から遠ざかっていくことにジレンマを感じる。演奏中はやっぱり反射神経が研ぎすまされるし何かが身に付くが、リーダーからは駄目出しされるし、自分でも弱点を見つけるから、早く家に帰ってじっくり練習したいな、と思う。これはバンドリーダーによって違いますが、毎日同じ曲を演り、どれだけ手を替え品を替え、お互いが飽きずに発展させていけるか、を試みるバンド。ヤマほどあるレパートリーの中から、毎日バンドスタンドで客の前で突然「~やります」、と言われ、慌てて曲を思い出そうとしたりして冷や汗もののバンド。とにかく毎日安定したことを、より安定させてやってくれ、と要求するバンド、もう様々です。

共通してるのは、やはり引き出しを増やさなくては、という事。だから、帰ってまた次のツアーに出るまで、家では前のツアーで頂いた有り難い宿題に取り組み、前のツアーで確実に得た「なにか」も決して忘れないように身体にもう一度叩き込む。そんな時、試しに行くのがNYのジャムや、誰か飛び入れさせてくれそうな人が演っているライブ(ブラッドリーズ等が当時あった)。この頃は、既に結構どんなミュージシャンも私のことを知ってたから、たいがいどこに行っても飛び入りさせてくれた。(この時、「いやー、おとといまで◯◯とツアーでさあ」なんて言葉を言えるともう立派にシーンの一員です。この会話がおこなわれてるのはまさに社交場で、この会話に入れないでちょっと離れたとこからじーっと楽器持ったまま羨まし気に見ている新人が必ず何人かいます。それがまたシーンというか社交場的vibeを作り出す。

たまに、あれ、確か2, 3日前見かけたなってのが「いやー、昨日ツアーから帰ってきてさあ。ほんとキツかったよー」とあからさまに嘘ついてる人もいました(そこもまたアメリカンショービジネスっぽくて笑ってしまった)。で、今、40過ぎて改めて感嘆するのが当時のバンマス達。50、60、当たり前。Booなんか70歳間近で自分でそんな行程運転してた。あの人達はほんとに音楽性も体力も全てにおいて、They live in the another planet. そんな彼らとの濃密な時間。私の宝物。

そうこうしている間に、なんとなく私の名前は当時のシーンに行き渡るようになり、ちらほらとレコード会社の人間も観に来るようになった。当時のコロンビアやヴァーヴ、ブルーノートなどなど、、、

ベティ・カーターは何度か私にありがたい忠告をくれた。「あんたは結構弾ける。しかも日本人でまだ若い女というルックス。これはビジネスには持ってこいだから、これから色んなオファーが舞い込む。チャンスが来たら逃さないというのは大切。でも今、私達と一緒にやってることを決して疎かにしてはいけない。例えどんな音楽をやろうとも、今、順子に身に付きかけてることは絶対にコアになるんだから。」

その通りだ。でなかったら、とっくにバークリーの時にバークリーメイドの新人としてデビューしている。私はそんなことを目指してたわけではない。ベティは大切な事を思い出させてくれた(彼女は私がリーダーとしてVillege Vanguardに出演した1週間、殆ど毎日来てくれた。駄目出しもいっぱいしてくれた)。

実際、アメリカの片田舎に行って驚いたのだが、例えばアジア系の小さな女の子が舞台に立ってるだけで一般聴衆は涙したりするのだ、そして指が速く動くと驚嘆するのだ。そんな事は数えきれない程あった。今でもそこは変わらない。アメリカでは楽器に関する幼児教育の均等化が、日本より遅れていた様な気がする。良いにつけ、悪いにつけ。だから私が、例えば譜面にある書き譜を一回で完璧に読んだらびっくりする人は沢山いた。

バークリーの中でさえそうだった。私はそれをあまりミュージシャンの絶対必要条件のひとつには数えないけど、みんな隣の芝生は青い、と思うことが多少あったのかも。それは今でもある気がする。けれど私がどうしても身につけたかったのは、譜面が読めるとか、指がよく動くとかそんなことでなく、「何故こんなリハモが?」とか「何故こんな所でアクセントが?」とかそんな事だった。

時折訪ねてくる業界の方々には「そうですね、もっと勉強してから、、、」などとごまかしながら色んなバンドに揉まれる日々は続いた。その間、アメリカでは第一次湾岸戦争が始まったり、ど不況のど真ん中で、どんどん日本の会社にいろんな物を買収されたり。なんとなく街は灰色だった。でも私達は相変わらず毎日が祭りのように各地を旅してまわっていた。

ちょっと話が脱線するが、仕事はほとんど口コミで回ってくる。
突然仕事の電話がきて、一度使われて、気に入られたり、気に入られなかったり。もし、気に入られた場合はその場の雰囲気で解るし、また電話が鳴る。気に入られなかった場合も、何となくその場の雰囲気で解るし、二度と電話は鳴らない。

初めての仕事で、いきなり2週間のヨーロッパツアーの場合もあるので、はるばるヨーロッパに連れて行かれて1日でクビにされ帰される事もある。クビにした側は慌てて現地でサブ(日本ではトラと言いますね)を捜す。そうやって、日本でも突然有名ミュージシャンに、テンポラリーに雇われた経験を持つ幸運なミュージシャンも何人かいる筈です。

また、仕事の依頼電話が、必ずマネージメントからかかってくるかというとそうでもなく、意外にミュージシャン本人から、直接かかってくることが多い。
有名なのは、かのマイルス・デイビス。彼のあの声や、喋り方は独特だから、よくみんな真似をする。で、ある日ビル・ピアスという当時バークリーでも教えていたしトニー・ウィリアムスのバンドで活躍していたテナー奏者のところに「マイルスだけど、ちょっと君の音を聴かせてくれないか」といった内容の電話が。ビルは「あ~◯◯だろ。お前、またくだらない冗談、今忙しいから」といって電話を切ったら、後日、あれはマイルス本人だったという話が。

テナーのゲイリー・トーマスが実話として言ってたが、彼にもやはりマイルス本人が電話してきて(彼は本人と信じて)電話越しに演奏を聴かせて「じゃあ、何月何日のギグ頼むよ」とバンド入りがあっさり決まったらしい。厳しい世界ではあるけれど、オープンな世界でもあった。

そんなある日、数々の著名ミュージシャンに推薦文を書いて貰い、やっと得ることができた就労ビザ(当時H-1)がそろそろ切れそうな事に気付き、延長しに弁護士の所へ。色々検討した結果、「望むなら、グリーンカードが取れるんじゃないか」と言う。かなり面倒な手続きだったが、申し込む事に決めた。ちょうどその頃、ロッテリー(永住権の抽選システム)も始まっていたので、もちろんそれにも応募。正直H-1をずっと引き延ばし引き延ばしは会社に勤めてるわけでない、フリーの私にとっては毎回かなり面倒なことであって煩わしさ極まりない。ここでグリーンカードがとれたらほんとに永住だ、と心の中で盛り上がっていた。

ところが、、、正攻法も抽選も失敗。結局またH-1ビザで3年いられるだけだ。だが、これもそうそう繰り返せない。移民局の法律はしょっちゅう変わるが、今回が最後の引き延ばしかも知れない。弁護士がその時初めて説明してくれたが、正攻法でグリーンカードを取った場合も、実際それが許可されるまで、アメリカで待つか、日本で待つか、決めなくてはならないのだ。もしそこで、アメリカを選ぶとすれば、その間一歩も国外に出てはいけないらしい。「その間」が1年なのか3年なのか誰も判らない。

なんじゃ、そりゃ!!そんなことになったら一番稼げる海外ツアーに行けなくて干上がって行く!絶対無理。取り敢えず、これから3年間はH-1ビザで滞在するとして、その後どうしよう!?
ここで、ふと、割と熱心にオファーを持ってきてくれていた、EMIのN氏の存在を思い出す。

N氏はBlueNoteレーベル大復活の立役者の一人で、ブレイキーやボビー・ハッチャーソンやマクリーンやトニー・ウイリアムスや、とにかく「Blue Note がBlue Note だった時をもう一度甦らそう」と行われたイベント、「One Night With Blue Note」 それから「真夏の夜のジャズ」を再現しようと20年間ほど続いた「Mt.FujiJazz Festival」の立役者である。

またその一方でBlue Noteの姉妹レーベルの「Somethin’Else」を企画し、積極的に若い才能をデビューさせていた。

ラルフピーターソン、やジェリー・アレンなどもそこでリーダー作を相次いで発表し、この頃の両者のアルバムは私に大きな影響を与えた。更にゴンサロなどもいたし、レジェンドであるSir.ロン・カーターもいたりした。

N氏は『ある時代のジャズには、とてつもなく格好良い物がある。しかも多数。ロックと同じ様に、若者はこれに衝撃を受けないと嘘だ。ジャズミュージシャンもだらだらと、自分勝手でダラしない演奏、取り敢えずの日銭で満足せず、ロックやポップスのミュージシャン達の様に「ヒットを出さないと干される」事を意識して、作品をつくらないといけない』といつも言っていて、NYで揉まれてる私に「なんかやろうよ」とNY出張で会う度に言っていた。

その度に、普段は高くて絶対食べられないお寿司屋さんなどに連れてかれて、いつの間にかそういう話になってるので、私の中でのN氏は「たまに現れて、美味しいものたらふく御馳走してくれる人」という印象しかなかった。

が、ある日突如、彼ならビザに関してなんとかしてくれるのではないか?とちょっと勝手に思いつき、相談してみた所、「まあ、レコード会社ってレコード(当時はCD)作ってなんぼだからねえ、、、いくらなんでも突然『Blue Note本社で事務とかやるから、今日ビザ出してください』ってそうじゃねえだろ?」

仰る通り。とにかく私にどれだけのことが出来るのか見せろと(もちろん音楽上の話ですよ)。

で、デモテープ作っては駄目出しの連続。たまにジャック・ディジョネットとかにも「これ、どうよ」と聴かせていたらしくて、突然ディジョネットから電話かかってきて「あの曲のあそこはこうするともっといい。私がプロデュースしよう(この頃はゲイリー・トーマスやらグレッグ・オズビーともバンドやってたので、当時彼らとスペシャルエディションをやっていたジャックに話がいったのはある意味自然な流れだった。)』

「へへ~。有り難き幸せ。でも私はビザ状況を安定させたいだけなんです。そして、一生サイドマンとして、生きてきたいんです!!」(とは、もちろんディジョネットには言いませんでしたが、、、)

と言っても、N氏には意味が解って貰らえないと思い、最悪あと数年後には、日本に永久帰国することも視野に入れ始めないといけない、と思い、借りているアパートはそのままにして、取り敢えず1回、「日本のジャズシーンってあるの?」と、様子を伺うべく、10日間ほど帰国したのです。

その時までに何度か日本にはバンドの一員として来てましたが、うーん、今回は何かちょっと違う感じ。

リサーチしたいことが少々。もし、この先日本で活動する事になった場合、いったい日本にジャズのライブハウスって(Pit innの存在さえ知らない)どれだけあるのか?ミュージシャンは(出来れば同世代)いるのか?で、私は食べていけるのか。

これはもうビザが取れなくなった3年後を想定してのリサーチでしたが、実際、日本には素晴らしいヤングキャッツ数人のオールドキャッツが存在したのです。特にびっくりしたのはトランぺッターの原朋直。そして日野皓正さんの弟さん、トコさん。「こんな人達がいるなら結構日本も楽しい?NYとはまた全然違うけど。とりあえず出会った人達は私を受け入れてくれそうだな。」berkleeで同じ時期を過ごしてた連中はもう皆日本に帰ってきてたし、そういう連中も含めればなんか、なんか楽しいかも?実り多い一時帰国となった。

が、やはりビザの問題は、なかなかうまく行かなかったのです。

まだアルバムを作ってもいないド新人と言うか、契約すらしていない新人に就労ビザを与えるのはかなり難しく(当時は)、かと言って何か他の仕事について(例えば日本食レストランなどに就職して)ビザを安定させる、となると当然音楽の仕事が出来なくなるし、やはりこの3年が最後のNYだと覚悟を決めました。何よりビザに関する書類集めはもうウンザリでした。

で、アパートはキープしつつ、ちょくちょく日本に帰って、日本のミュージシャンとゲリラ的に仕事したり、NYで仕事が入れば飛んで帰る、ということを暫く続けました。(飛行機代は自腹。この頃ちょっとあった貯金はこれでパー)

そんな中で例のN氏から「そろそろなんかやんない?」と突然私のことを思い出したらしく電話が、、、(この時、「いやあ、連絡しなくてすみませんねえ、忘れてたわけじゃないよ」、っと言ったことが、「あ、絶対、この人私のこと全く忘れてたな、」と確信させた)

で、急遽東京にいる間に作ったのが「Wow」というデビュー作だった。そして、この後、期せずしてバンドリーダーとして、日本で新しいキャリアを作っていくこととなる。

だいぶ時間を遡ってしまったが、ここで前出の、私のBerklee時代、NY時代を共に過ごした盟友K氏の、彼独自のスタンスから見た当時のJazz sceneを語ってもらいたいと思う。

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僕の記憶の限りでは’88 ~ ’94 当時のNYはまさにアコースティックなJazzで(もちろん他のジャンルも)パワーに満ちあふれていました。Miles Davis, Art Blakey, Dizzy Gillespie, Roy Eldridge, Sweet Edison, Doc Cheatham, Elvin Jones, Tony Williams, Billy Higgins, Art Taylor, Freddie Hubbard, Woody Shaw, Sonny Rollins, Stanley Turrentine, Joe Henderson, George Coleman, Johnny Griffin, Jackie McLean, Herbie Hacock, Cedar Walton, McCoy Tyner, Walter Davis Jr. John Hicks, Ron Carter, Buster Williams, Bobby Hutcherson, Betty Carter, Abby Lincoln等々(Just name a few!)の数えきれない数のMaster達!!(当時は彼等はそう呼ばれていました。天国へ召されてしまった方も多く、現在ではLegendと称される事が一般的ですね。)がまだまだバリバリと健在で、彼等は常に若い有望なミュージシャンを招き入れ適度に且つ絶妙のタイミングでメンバー交代を繰り返し自分のグループを率いていました。

そしてどのグループも、他には無いほど個性的なサウンドを看板に、最良の演奏を繰り広げていました。そうそうVillage Vanguardのロレイン女史が(もちろん今もですが)Super元気で勢いがありました!で、彼等はまさにJazzの歴史を生き抜いたアーティストであり、目まぐるしく発展を遂げたこの音楽の生き字引な訳ですね。彼等の演奏や言葉に触れるという事はまさに(例え間接的だったとしても)Jerry Roll Moton, King Oliver等に単を発しBig Band, Swing, BeBopと脈々と継承されるJazzの伝統と歴史の一旦に触れるという事を意味するといっても過言ではないと思います。

Sweet BasilのSunday Brunchでは毎週Doc Cheathamの演奏が聞けたのです!当時まだ始まったばかりのJazz At The Lincoln Center主催のコンサートではRoy Eldridge, Sweet Edison, Doc Cheathamの共演を聞くことが出来、彼等のいわゆる”ムード”、空気感を体験できた訳です。これはもうLouis Armstrong, Duke Elington, Count Basieの世界を間接的に垣間見るという体験に近いですよね。彼等と話をしたり、音を一緒に出したするという事は、彼等の経験に基づいたメッセージや価値観を共有できるチャンスを持つという事であり、またその歴史の一部を共有する事を意味するではないでしょうか。

どのように物事が発展し進化してきたか?歴史を正しく認識する、ということはとても重要ですね。”Learn the history of Jazz” これは皆の口癖でした。Wynton, Branford, Terence Blanchard, Donald Harrison, Kenny Garrett, Wallace Roney, Mulgrew Miller, Jeff Watts,  Gene Jackson等のEarly80sにシーンに登場し、数々のMaster達との共演により、多くの経験を積んだ彼等は既に多忙なサイドメンや、リーダーとして自己のグループで活躍し初めていて、同世代であるRalph Peterson, Carl Allen, Charnett Moffett, Cyrus Chestnut, Benny Green, Reginald Veal, Rodney Whitaker等や、さらに若いMusician達を自己のグループへメンバーとして招き入れ活躍し始めていました。時はまさに’89頃、Spike Leeが映画『Mo better Blues』の製作をしている頃です。(そういえば当時、Donald Harrisonの家のSessionには同映画でSaxophone player役を務めたWesley Snipes が出入りしていて、Saxの吹き方を勉強しに来ていましたよ)

Roy (Hargrove)や、James Carter, Wycliffe Gordon, Nicholas Payton, Joshua Redman, Christian MacBride, Dwayne Burno, Peter Martin,Greg Hutchinson, Brian Blade, そして大西順子達が、丁度その頃NYシーンに頻繁に登場し、活躍し、次第にその名前を広めていく様になるのですね。

BostonからBrooklynに引っ越した頃、時をほぼ同じくして、僕はかねてからの友人でありMentorであるTerence Blanchardのアシスタントとして、彼のマネジメントであるBurgess Managementの一員として、迎えられる状況がありました。いわゆる当時のアメリカのジャズシーンを、Music Bussinessという視点から勉強する幸運に恵まれました。大手メジャーCBS Columbiaとの契約下、アルバム『Billy Holiday Song Book』や、映画『Crooklyn』,『The Inkwell』等のサウンドトラック製作を含め、国内のロードマネージャー等も経験もする事ができました。

当時のTerenceのBandは、Sam Newsome, Bruce Barth, Tarus Mateen, Troy DavisからなるQuintetからTerence, Bruce Barth, Chiris Thomas, Troy Davisから編成されるQurteteに移行のタイミングでした。この時期、『Billy Holiday Song Book』は好評を博し、Jay Lenoの ”Tonight Show” や、BETアワード、カーネギーホールでのSony Rollinsとの共演の実現を初め、数々のフィルムスコアが大成功し、ハリウッドでも常に話題にあがる作曲家としてTerenceは内外にその名前の徐々に広め始めた時期でした。この時期に経験した事、価値観はその後の自分に大きな影響を与えてくれています。

さて、話を戻しましょう。活気に満ちあふれていたその当時、Musician同士のハングアウトはとにかく盛んで自宅でのクローズJam sessionも多かったです。また自分のGigが終わった後に他のMusicianを聴きに行く(check out) 何てことは常にあったし、その場ですぐに楽器を取り出してSit In! なんて言う場面も常でした。例えばTerenceはある時、VanguardでのGigを終えるとすぐにTaxiに乗ってBradley’sへMulgrew (Miler)の演奏を聴きに行ったりする事をその週はほぼ毎日してました。で、翌日自宅でPianoを弾きながら前日Mulgrewが演奏していたSkylarkのChangeを確認してたりして、「あそこはBass playerのリハモがいまいちだったからMulgrewがかっこ良く聞こえないんだよ」なんてコメントしてました。

Roy (Hargrove)がBradley’sでJohn HicksのGigで演奏しているとFreddie (Hubbard)がふらっと現れて、BarからJokeを飛ばしてたり。あぁ、Bradley’s は本当に素晴らしい場所でした!George Colemanは自分のGigで ”Body and Soul” を毎コーラス半音づつ上げてSoloをしてたり。またCedar WaltonはRon Carter, Billy Higginsと完璧なアレンジでTrioの可能性を追求していたし、HerbieのTrioは本当に自由~に始まって同じ曲でも旅先が全く異なる国かの如く、毎回全く異なった旅が繰り広げられていたし。Blue NoteではFreddieがGigに遅れて来たRalph Mooreが息も切れ切れステージに上がった途端、いきなり本人にアナウンス無しでオーディエンスへ向かって”次の曲はTenor Saxophnisitの才能あるRalph Mooreをフィーチャーして…”ここで本人の顔色を一瞬伺って、”Stardust” をお送りします”なんて!Ralph Mooreが落ち着く暇もなくカウントもFreddieが1.2.3…って感じでずんずんと!Old Cats流儀ですね。

Joe HendersonがFat TuesdayでGigをしている同じ週にJazz MessengersはSweet Basil、そこにDonald HarrisonがGuestで入って来たり。全米人気番組『Tonight Show』の長期契約の為にWest Coastに引っ越す前日、Vanguardに出演しているTerenceの最終セットにわざわざ自宅から車を飛ばしてSit inしにきたBranfordはTerenceと一緒にMonk’s Dreamを一緒にJamってました。そこにJeff Wattsが現れたり。MusicianがMusicianをcheck outする!!という場面が凄く多かったです。Up TownにあるAugie’sやBrooklynにあるDean Street CafeのJam sessionや深夜のBlue NoteのJam sessionもシリアスに盛り上がってました。

それにしても、ともすると3世代にも及ぶ交流が盛んだった当時のNYはまさにパワフルでした!街全体が学校だったんですね。

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以前も書いたがK氏はトランぺッターとしてBerklee時代の1年程を日々ともにセッションに明け暮れ、私より1年程遅れてNYに居を移し、私とはまた違った形、テレンスのアシスタントとして、ミュージックビジネス側から、この頃のムーヴメントに遭遇していた。

それだけに、2年前、私のブルーノートのステージを観に来てくれ、10年以上ぶりに会った時には、ふたりともあの頃の想い出が「ぶわーっ」と止まらなかった。

そして今、また演奏活動を再開した私が、現在のシーンに感じている事をやはり彼も感じていた。「あの頃とは違ってしまった」と。

あの頃のムーブメントは確かに価値あるものだったし、それを体験しているミュージシャンとそうでないミュージシャンの出す音が違う事(良いとか悪いとかでなく、ただ、違う)はもちろん日本だけではなく、NYや世界中の私達の世代がみんな感じている事でもあった。

話し込んでいるうちに「ちょっと一緒になんかやってみない?」というアイディアが出たのは自然な流れだったと思う。K氏は、海外でのマネージングのノウハウをNY時代叩き込まれてるし、英語ももちろん堪能だ。私がもう一度、ラストジェネレーション達と何かをやるとして、裏から支えてくれる彼ほどの適任者はいない。ただし、彼は色んなバンドで活動中のトランぺッターなので、その活動を止めてまで、というのは流石に無理だと思っていた。が、彼自身も「ラストジェネレーション」 という自負がやはり強く心にあり、「もう一度あの頃のサウンドを世界に問いてみたい。」という思いがあったに違いない。もの凄く悩んだ結果、暫く自分のミュージシャン活動を二の次にして、ふたり一緒に走り出すことになったのだ。そして出来たのが「Baroque」だった。

正直、今後どの様な展開になるか私にも解らないし、この作品がどの様な状況で皆さんの手元に届いているのか、私は全く知る由もない。

ましてや何かしら、皆さんの心に響いたのか、響かなかったのか、どうして知ることが出来よう。

ただ、私が望むのはこれだけ。「あの遺伝子を引き継ぎながら、自分の声を発しようとしている私達の音楽はきっと死なない。」

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